郡内大工仲間(ぐんないだいくなかま)は甲斐国東部の都留郡内の大工集団。

郡内における大工集団

甲斐国は大きく西側と東側に区分され、それぞれ国中(山梨郡、八代郡、巨摩郡)と郡内(都留郡)と通称される。

国中に於いては、河内の下山大工、甲府町方大工が存在しており、一方郡内は国中と比較して、古代から現代まで政治や文化に違いをもっており、大工集団も独自に形成された。

郡内の大工職達による太子講からはじまり、谷村藩時代には領内が13区の「細工場」に区分され、それぞれの区域を統率する細工場棟梁と、それをまとめる御役大工棟梁が存在し郡内大工仲間を組織していた。

郡内の大工職は、武田氏が滅亡し鳥居氏が郡内城主時代には関氏、小池氏、山内氏が御用大工となり、秋元氏城主時代には戸所氏、花田氏が活躍した。

萱沼氏は慶長5年(1600年)から幕末まで江戸時代を通じて記録が残る。

上吉田の山本氏、下吉田の萱沼氏、谷村の花田氏、鳥沢の大森氏などが数世代に渡り活躍したことが分かっている。

郡内大工仲間の社殿造営で最大の規模を持つものは北口本宮富士浅間神社であり、貞享5年(1688年)の現本殿造営から、享保18年(1733年)江戸の富士講村上派を率いる村上光清が私財を投じて出資し、境内の拡充が行われ、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、隋神門と一連の社殿を造営した。棟梁は上吉田村山本市三郎、下吉田村萱沼弥左衛門、谷村範田幾右エ門(花田兵右衛門)、鹿留村相川長兵衛と棟札や墨書きが残されているが、どのような組織形態、誰がどの建物を担当して造営が行われたかは不明である。

排他的職域

群内の大工は他領大工の進出を阻止し、強力な排他的職域を有していた。

郡内に進出しようとした下山大工や甲府町方大工との間で数々の訴訟が起こされ、進出阻止をしている。

国中と郡内との間に大工の営業上の交流は殆ど無かったという結果が出ている。

国中の大工が棟梁を勤めた唯一の例外は、武田信玄が造営したと伝えられる北口本宮冨士浅間神社東宮本殿(永禄4年・1561年)で、甲州大工小山善衛門と小嶋出くへもんの名が記されており、郡内で甲州とは国中を指す為と、恵林寺大工として知られる小嶋姓大工との関係が伺われ、信玄が北口本宮最初の造営に国中の大工を派遣したことがうかがわれる。

檜皮大工(屋根大工)は、甲府の檜皮師が河内・郡内まで取り仕切っており、大工とは異なった営業圏を有していた。

彫り物大工は、冨士山下宮浅間神社本殿(明和4年・1767年)で初めて外部の彫り物大工、武州の江原弥平治に依頼が行われ、続く生出神社(おいでじんじゃ)本殿(明和5年・1768年)にて、江戸の彫り物大工後藤正常・正道親子による総彫りの本殿が造営された(棟梁は上鳥沢村、大森三左衛門藤原保義・谷村、花田甚助)。

文政10年(1827年)には、その職域の牙城が崩れた。それは野田尻(現上野原市野田尻)の戌嶋神社で、相模国大山の明王太郎が請け負った。

明王太郎が郡内域に入ったことで訴訟が起こされ、経緯が残る。当初戌嶋神社造営は桑久保村の大工伝右衛門が請け負うことで進んでいたが、125両と見積もりが高く、隣村である野田尻村文左衛門に相談したところ、職縁がある明王太郎を招き90両の見積もりを立てた。その後「済口証文」が作成され明王太郎が棟梁となり普請を請け負うこととなった。

萱沼家文書(資料)と萱沼弥左衛門、徳右衛門

萱沼家は現在の富士吉田市下吉田に拠点を置く有力氏族で、下吉田衆は萱沼与一(市)之助、屋号「よいっちゃま(与一様)」を総本家とし、萱沼弥左衛門、屋号を「大上本家」と萱沼徳右衛門「大上第一分家」が大工職を務め、大上本家当主が弥左衛門の名を世襲して細工場棟梁を勤め、複数代に渡り御役大工棟梁も歴任した。同じく大上分家も徳右衛門を世襲し都留郡の南部、富士北麓地域、静岡県の御殿場等駿東で活躍した。

徳右衛門家は、冨士山下宮小室浅間神社の流鏑馬「占人」の家系でもある。

萱沼家文書はこの萱沼(屋号、大上)家に残された「現存する建築に対応した」文書資料と、郡内各地の建築に関わる申請書、訴訟、組織運営などの資料群である。

萱沼家の最古の活動記録は、北口本宮富士浅間神社に伝わる慶長5年(1600年)の神輿の棟札「萱沼彦作・萱沼久兵衛」で、「萱沼弥左衛門」の名前の初見は慶長18年(1613年)の浅間神社(忍野八海)本殿の棟札である。

最大の建築は文政3年(1820年)大原山如来寺本堂。

明和4年(1767年)の冨士山下宮浅間神社本殿は山梨県最大の一間社本殿で、萱沼家の建築を拡大発展させ、鳥沢の大森三左衛門藤原保義などの郡内大工仲間のからの影響を受けた集大成となっており、以降の郡内大工仲間の本殿建築に図面が参考・下地にされた。以降、一間社・入母屋造り向拝唐破風付き・軒尾垂木三手先組物中備有・腰組中備有・折衷様等を特徴とする中小同様の冨士山下宮型本殿が多数建設された。萱沼家文書内に推定小室浅間神社(冨士山下宮浅間)図面として残る。

萱沼家の関わる拝殿は、漣神社・天神社(下吉田)・冨士山下宮小室浅間神社において、拝殿正面一間を凹型にして縁側に大床を造設した特徴的な造りをしている。

大森三左衛門市正藤原保義

大森三左衛門市正藤原保義は現在の大月市富浜町鳥沢に拠点を置く大工職で、現在の山梨県北都留郡一円から神奈川県相模原市まで精力的に活動した人物。通称、日光三左衛門。藤原保義と称し、市正と号す。

下野国(現栃木県)日光の職人に師事したと伝えられる。野州安蘇郡下野村出身。

上鳥沢村に定住して郡内大工仲間に加わり、多くの弟子を育て地元大工、弟子などを率いて建築を行っていた。

天明7年(1787年)2月2日死去。

以降、大森氏や弟子は「大森市正流職」「日光流」「大森流」として活躍していく。

棟札に弟子として明記されているのは、上鳥沢村大川万之助・大森茂伝次、上条市太良、秋山村佐藤権之進・佐藤五太夫、川合村久嶋文五右衛門、綱上村坂本権太良の7名。

大森氏は保義ー義勝ー照保と継承されている。

花田氏

花田氏は秋元氏に付随して郡内に来た大工職の氏。都留市谷村に拠点を置く。

郡内社殿ギャラリー

脚注


【サウスト】激闘 フランキー&チョッパー 超級 〜共闘する船大工と船医 ※解説付き〜 YouTube

只今、大工仲間の現場へ手伝いに行っております! 八王子市・某保健福祉センター 黒田工務店日記

郡内風露(グンナイフウロ) 花の仲間調べ

肉体労働 (にくたいろうどう) JapaneseEnglish Dictionary JapaneseClass.jp

宮大工の技術、ユネスコ無形文化遺産へ 株式会社天峰建設